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六即読み下し

teibo640

六即について

(六即とは六即一の略であります。六は差別、一は平等。これが相即しているということであります―編者注)

 六即に約して是を顯わさば、初心を是とせんや、後心を是とせんや。
 答う、論の焦炷(しょうちゅう)の如し。初に非ずして初を離れず。後に非ずして後を離れず。若し智信具足して、一念即ち是なるを聞けば、信の故に謗らず、智の故に懼れず。初後、皆是なり。
 『若し信無くんば、高く聖境に推して、己が智分に非ず、若し智無くんば、増上慢を起し、己れ佛と均しと謂う。』
  初後、倶に非なり。此の事の爲の故に須らく六即を知るべし。謂わく、理即、名字即、觀行即、相似即、分眞即、究竟即なり。
 此の六即は、凡に始まり、聖に終る。凡に始まるが故に疑怯(ぎこ)を除き、聖に終わるが故に慢大を除く云云。
 理即とは、一念の心即ち如來藏の理なり。如の故に即ち空、藏の故に即ち假、理の故に即ち中なり。三智、一心中に具して不可思議なり。上に説くが如し。三諦一諦、三に非ず一に非ず。 一色一香にも一切の法を具す。一切の心も亦復是くの如し。是れを理即是の菩提心と名づく。亦た是れ理即の止觀なり。即寂を止と名づけ、即照を觀と名づく。
 名字即とは、理は即ち是なりと雖も、日に用いて知らず。未だ三諦を聞かざるを以って全く佛法を識らず。牛羊の眼の方隅を解せ不るが如し。或いは知識に從い、或いは經卷に從いて、上に説く所の一實の菩提を聞きて、名字の中に於いて通達して解了して、一切の法は皆是れ佛法なりと知る。是れを名字即の菩提と爲す。亦た是れ名字の止觀なり。若し未だ聞かざる時は處處に馳求し、既に聞くことを得已んぬれば、攀覓の心息むを、止と名づく。但だ法性を信じて其の諸を信ぜざるを名づけて、觀と爲す。
 觀行即是とは、若し但だ名を聞き口に説くは、蟲の木を食らい、偶(たまたま)字を成ずることを得れども、是の蟲は是字と非字を知らざるが如し。既に通達せず、寧んぞ是れ菩提ならん。必ず須らく心觀明了して、理と慧と相應じ、所行は所言の如く、所言は所行の如くすべし。『華首』に云わく、言説多きは行ぜず、我、言説を以ってせず。但だ心に菩提を行ず』と。此の心口相應は、是れ觀行の菩提なり。
 『釋論』の四句に聞慧具足を評せり。眼、日を得て照了するに僻無きが如く、觀行も亦た是くの如し。未だ理に契わずと雖も、觀心息まず。
 『首楞嚴』の中の射的の喩の如し。是れを觀行の菩提と名づく。亦た、觀行の止觀と名づく。恒に此の想を作すを觀と名づく。餘の想の息むを止と名づく云云。
 相似即是の菩提とは、其の逾(いよい)よ觀じ、逾よ明らかに、逾よ止、逾よ寂なるを以って、射を勤むるに的に隣(ちか)きが如くなるを相似の觀慧と名づく。一切世間の治生産業は相い違背せず。所有の思想籌量皆、是れ先佛の經の中の所説なり。六根清淨の中に説くが如し。圓かに無明を伏するを止と名づく。似の中道の慧を觀と名づく、云云。
 分眞即とは、相似の觀力に因って銅輪の位に入る。初めて無明を破して、佛性を見、寶藏を開いて眞如を顯わすを發心住と名づく。乃至、等覺には、無明微薄にして、智慧轉た著わる。初日從り十四日に至りて、月の光、圓かに垂(なん)なんとし、闇、盡くるに垂んなんとするが如し。若し人、應に佛身を以って得度すべき者には、即ち八相成道し、應に九法界の身を以って得度すべき者には、普門を以って示現す。經に廣く説くが如し。是れを分眞の菩提と名づく。亦た分眞の止觀、分眞の智斷と名づく。
 究竟即の菩提とは、等覺一たび轉じて妙覺に入る。智光圓滿にして復た増す可から不るを、菩提の果と名づく。大涅槃斷にして、更に斷ず可き無きを、果果と名づく。等覺は、通ぜ不、唯だ佛のみ能く通ず。茶の過ぎて道の説く可き無し。故に究竟の菩提と名づく。亦た究竟の止觀と名づく。總じて譬えを以って之を譬うるに、譬えば貧人の家に寶藏有って而も知る者無し、知識、之を示して、即ち知ることを得、草穢を耘除して、而して之を掘り出して、漸漸に近づくことを得、近づき已って、藏を開き、盡く之れを取り用いるが如し、六喩を合して、解す可し、云云。
 問う、『釋論』の五菩提の意や云何。
 答う、『論』は竪に別の位を判し、今は竪に圓の位を判ず。之を會すれば、發心は名字に對し、伏心は觀行に對し、明心は相似に對し、出到は分眞に對し、無上は究竟に對す。又、彼の名を用いて、圓の位に名づけば、發心は是れ十住、伏心は是れ十行なり。
 問う、住、已に斷ず、行、云何んが伏せん。
 答う、此れは眞道を用いて伏するなり。例えば、小乘の、見を破するを斷と名づけ、思惟を伏と名づけるが如し。明心は是れ十迴向、出到は是れ十地、無上は是れ妙覺なり。又、十住より五菩提を具す。乃至、妙覺は究竟の五菩提なり。故に『地義』に云わく、『初めの一地より諸地の功徳を具す』と。即ち其の義也。
 問う、何の意ぞ、圓に約して六即を説くや。
 答う、圓かに諸法を觀ずるに皆六即と云う。故に圓の意を以って、一切の法に約して、悉く六即を用いて、位を判ず。餘は爾らず、故に之を用いざるなり。其の教に當って之を用うれば、胡爲んぞ、得ざらん。而も淺近の故に教の正意に非ざる也。然るに上來非を簡ぶに、先ず苦諦の、世間に升沈するに約して簡ぶのみ。次に四諦の智の曲拙淺近に約して簡ぶのみ。次には四弘の行願に約し、次には六即の位に約す。展轉して深細に、方に乃ち是を顯わす。故に知んぬ、明月の神珠は九重の淵の内なる驪龍(りりゅう)の頷下(がんか)に在り、志有り、徳有りて方に乃ち之れを致す(是を顕す)。豈に世人の麁淺浮虚にして、瓦石草木を競い執りて、妄りに謂いて寶と爲すが如くならん。末學の膚受、太だ知る所無し。
  摩訶止観巻第一上より