六即現代文

teibo640

六即について

(六即とは六即一の略であります。六は差別、一は平等。これが相即しているということであります―編者注)

 六即というのは、円教の修行者の階位であって、理即、名字即、観行即、相似即、分証即、究竟即の六位である。
 六即は燈心のようなものである。燈火は菩薩の修行であり、燈心を無明とすれば、初心の位である燈心の先端の燈火は、その終わりを目標として燃え続けるから、初めの輝きが目的ではないが、初めの燈火が必要がないわけではない。
 また燈心の終わりは目的ではあるが、燈火の初めに輝きの根源があるから、初めがもとであるが、最後の目標を離れるわけにはいかないという関係にあって煩悩を消滅し続けるのである。 
 だから円教の仏道修行には、智慧と修行との両方が備って具足すれば、仏道修行の一念は円満であるというように教えられている。
 信をもっていれば、謗る心を起すことなく、智慧が備われば、心に恐れを懐くことがないから、初めも終わりも共に円の仏道修行には欠くことのできない大切なものである、と知るのである。
 もし、信がなければ、円の仏道修行はあまりにも、高い聖境であるから、自分のごときものの到底及ぶところではないと思うであろうし、もし、智慧がなければ、増上慢の心を起し、おのれは仏に等しいなどと思うのである。このようであれば初めの位も後の位も共に非であることになる。このように円の仏道修行の良い面と悪い面の両方を知るために、六即の位を知る必要があるのである。
 この六即は凡位から始まり聖位に終わっている。凡位から始まっているから精進心を起し、疑いを除くことができるし、聖位に終わるから慢心を除くことができるのである。
 理即とは円教で説く真如中道の教えの名称さえ聞かない位である。
 次の名字即は経典や善知識等に導かれて、真如中道の理を聞く位であり、次の観行即は、教理と智慧が相応した位で、教えを離れても、修行者の智慧が真如中道の理と常に相い応じて修行ができる位である。
 相似即は、修行の智慧がさらに一段と進んで全くそのままに、はっきりと悟れる位である。
 分証即は片方では無明の煩悩を断じ、他方では真如中道の妙理を悟り始める位である。この位を分真即ともいう。分真即は中道の理を証得した立場の名であり、分証即は煩悩を断じた立場の名前である。
 終わりの究竟即は、根本の無明の煩悩を断じ尽くして、完全に真如中道の妙理を証得することができた位をいうのである。
 しかし、宇宙真如界はすべていずれの場所も生命も、唯一の絶対の真如界であるから、仏の一念も三千の実相であり、凡夫の一念も三千の実相であることには変りはないから、共に同一の真如であるならば、六つの位の一つ一つの当体はまた、そのまま三千実相の体であることには異なりはないことになる。これを証得の三諦といい、この証得の三諦を凡心の一念に具定する空観、仮観、中観の三観を用いて悟る修行の結果を修得の一心三観というのである。すなわち修得と証得とは本来同一のものであって、これを修証不二というのである。燈火の初めと終わりは、初めと終わりというように異なっていても、燈心の煩悩を焼却して一に帰するようなものである。
 たとえば、貧しい人が、我が家に宝の蔵を持っていながら知らなかったのを、善導の智者がこの宝の蔵のあることを教えたため、知ることができたが、始めのうちは自分は貧しい賎しいものであると思い込んでいたので、なかなか蔵に近づこうとはしなかったが、この蔵のある家の草を取ったり、穢れたものを掃除したりして月日を重ね、やがて、その家のすべてを了知するようになり、ついに、蔵を開いて出入するようにもなったようなものである。
 六即の即という文字には①二物が相い合するという意②池の水が風に吹かれて水が濁っても、濁水が澄めばもとの清浄な水となるようなものである。③渋柿も太陽に当てればそのまま甘柿となるようなものである。
 円教の六即の即の字の意味は③の渋柿すなわち甘柿に当る即の意味である。これを当体全是の即というのである。
 元来、六即の位は、本体論上からするならば、六位は、皆、即、仏であると見られるから、特別に階位を設ける必要はないようなものであるけれども、しかし、現象面の現実の世界からすれば、我が身は即、仏でありながら、即仏であることを全く知らないものが居り、また知っているものもあり、さらに進んでは、その一部分を悟得したものもあり、全く悟得したものもある。これらの不同を判別するために、六位の不同を明らかにしたものである。
 六位の不同からすれば差別観であるが、六位本来皆即仏と見れば平等観となる。
 即仏の辺のみを強調すれば、修行が未熟であるのに、我は仏に等しいと言う増上慢の心を起すことになり、また、六位の差別の辺のみを強調すると、自分のような低い機根のものは、とうてい仏果を究めることは困難であると卑屈の心を生じる恐れがあることになる。
 円教の立場から六即の位を立てるのは、何故かと言えば、宇宙万法の理を円満に観じることができれば、みな六即となるものである。このような意味があるから、一切法を理解する立場に立って、すべて六即をもって仏道修行の位を判定することにしたのである。他の教えの立場からでは、六即の位を立てて判別することは困難であるから、六即は用いないのである。浅近な教えについて、一々当てはめてみれば、出来ないことはないが、それは、その教えの正意に反することになるのである。
 さて、今まで菩提心を起すには適当でない心を選んで、初めに苦諦が根本となって、六道に輪廻する姿を説き、次に苦諦と集諦と滅諦と道諦の智は、広く十六諦に及んだが、すべてその智慧は、曲がりくねって浅く近いものであることを示した。
 次には四弘誓願の修行の上から十六の誓願を述べ、さらに六即の位の上から述べて、次第に広から狭に、また麁から細に、発菩提心に必要なものを顕したのである。
 六即は修行であり、菩提心はその果徳である。
 神珠といわれる明月の摩尼珠は、苦諦とその奥の四諦と四弘誓願の九重の奥深くにおさめられているという。
 それは、黒色の角のない雌竜の頭下の脳中にあって福徳のあるものは、得ることができるといわれ、また、精進波羅蜜の修行を完成し、竜宮の宝珠を得た能施太子のような、どんな障害にも屈することのない、精進心に励むものに与えられるという。
 普通の人が、浅薄で、ただ虚しく瓦や宝石や美しい草木などを取り合って、宝とするのとは大きな違いがあることを知らねばならない。

  摩訶止観第一の下より